【偏差値65】武蔵中学校
武蔵中学校・高等学校(むさしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都練馬区豊玉上にある私立中学校・高等学校である。中高一貫制男子校。
概観
根津育英会が設置した旧制武蔵高等学校を前身とする進学校。東京都立高校全盛の頃より、筑波大学附属駒場高等学校などと共に、東京大学への高い合格率を誇る学校として知られた。学界・官界に多くの卒業生を送り出している。
教育目標
三理想という、事実上の校訓ないし校是があり、その内容は、
東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物
世界に雄飛するにたえる人物
自ら調べ自ら考える力ある人物
である。これは、開校初年度の入学式で一木が述べたものについて、1929年に表現上の変更をしたものである。
沿革
根津嘉一郎1922年、第二次高等学校令に基き七年制の旧制高等学校「武蔵高等学校」として創立されたのがはじまり。創立者は根津財閥初代総帥の根津嘉一郎で、賛同した宮島清次郎、正田貞一郎らは理事となった。初代校長には一木喜徳郎、さらに評議員として北条時敬、平田東助、岡田良平、山川健次郎などを教育界から迎えた。官立の東京高等学校と並んで日本最初の七年制高校であり、日本で最初の私立高校[1]でもあった。後に七年制高校としては府立高等学校も設立され、七年制高校は、当時の府立一中 - 一高 - 東大ラインに代わりうる新たなエリートラインとして台頭しつつある存在でもあったが、太平洋戦争に突入し人気が急落、道半ばとなってしまった。そのため、七年制高校の評価は定まっていない。1948年に学校教育法に基き新制高校「武蔵高等学校」が発足、1949年に新制中学「武蔵中学校」が発足し、2000年には高校からの募集を停止し、完全な中高一貫校となり、現在に至る。
旧制武蔵高校は、山本良吉教頭(当初)の主導のもと、英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、ガリ勉を推奨した。それゆえ 東京帝国大学合格者数では及ばないまでも進学率で旧制第一高校、旧制東京高校等と首位の座を争ったこともあった。しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育に嫌気の差した生徒の退学が相次ぎ、当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった[2]。
もともとは「東京高等学校」という名称になる予定だったが、官立で東京高等学校を設立することが決定され、名称を譲渡して欲しいとの申し入れを受け、東京府の旧国名から「武蔵」と命名された。
校風
非常に自由な校風を特色とする。服装や所持品を定める規則はなく、私服校である。校則で定められている禁止事項はバイク通学や校舎内での下駄履きなどごく限られている。
水投げ
かつて、上級生が「歓迎」と称して、水を入れたビニール袋を新入生の教室に向けて投げこむいたずらが、4月の恒例となっていた時期があった。水投げの被害によって授業が中断したこともあり、現在では事実上禁止されている。その様子は大岡玲の芥川賞受賞作「表層生活」の中にも登場する。
教育 [編集]
授業では文科省指定教科書はほとんど用いず、プリントや文庫本等を教材にする。一部科目では高校レベルを大きく超えた内容も扱うなど、教養教育が大きな特徴。また、夏期休暇前に行なわれる「特別授業」や、高校1年の「総合講座」では科目編成にとらわれない実習や講演が開かれる。[4]
語学教育は、英語ではCALL (en:Computer-assisted language learning) を取り入れるなど、先進的手法の導入に積極的である。また、中学3年より全員(高校からは選択者のみ)が週2時間の第二外国語を学んでおり、ドイツ・オーストリア・フランス・中国・韓国の各校と提携し、交換留学を行っており、武蔵からは毎年十数名の生徒を派遣している。また、イギリスのイートン・カレッジとも交換している。
生徒の自主研究活動に授与される、山川賞・山本賞という表彰制度があり、それぞれ理科的研究・文化的研究に与えられる。
中学入試問題は創立当初から記述力・発想力を問う形式で、一般的な入試問題とは一線を画している。応用問題のみで構成される算数、字数制限なしの論述問題が出題される国語、高いテーマ性を持った社会、「観察問題」の出る理科など、全ての科目が特徴的。高校からの募集は2000年に停止され、以後実施されていない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』武蔵中学校・高等学校


